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1999年10月26日から2004年10月12日まで続けたマーケティング的コラムをブログとして復活させました。 大昔に会社の部門報に書いた文章も少々。
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1.あらためて引き際を考える


この前、あれだけ「引き際」ということを書いたのに、菅直人という、何とも「引き際の悪い政治家」が、マスコミを賑わせています。

私がなぜ、ここまで「引き際」にこだわるのか。
それは、「引き際の悪さ」とは、つまり「己を客観視できない証拠」だからです。

マーケティングとは、物事を科学的に捉えるものだから、第三者的視点を忘れてはならない。
世の中に「マーケティング屋」が、数多くあるのも、クライアントたる企業なり、団体なりが、自分達を客観的な目で見ることができないから。
自分達が作った商品は、そりゃ可愛いものですからね。
アバタもエクボに、段々と見えてくるものです。

でも、我々マーケティング屋は、「残念ながらそれはアバタですよ」と指摘してあげなければいけないことがある。
クライアントにとって、厳しいことであっても、指摘するのが、我々の役目です。

クライアントに厳しいことを言うのだから、自分自身については、当然、身綺麗にしておく必要がある。
だから、普段から「自分を客観視するクセ」をつけておかなければいけない。

いや、客観視というよりも、ちょっと厳しいくらいの目で見ておく必要がありましょう。
クライアントにばかり、ズケズケ言っておきながら、自分が自惚れの塊みたいな人だったら、それは神経を疑われますからね。

何かの是非に対する判断であれば、多少の意見の食い違いも、個々の意見の相違として吸収できる。
でも、己の出処進退は、まさに自分の問題です。

本来、地位が上になればなるほど、自分勝手は許されない。
それが、ノブレス・オブリージュというものでしょう。
ところが、これが面白いことに、地位が上になればなるほど、人間は身勝手になってしまうものらしいです。
これは、本人だけの問題ではなくて、周囲がチヤホヤする者ばかりだったり、反対に、萎縮して、何も言い出せない人ばかりであったりということも多いからでしょう。

雑音が入ってこないことを自覚すること、これはなかなか難しいものです。
でも、本人にとって、はらわたが煮えくりかえるような情報こそ、心を正して聞かなければいけないはず。
まあ、難しいことですけどね。
だって、はらわたは煮えくりかえっているんですから。
でも、そこをグッと堪えて、イヤな情報に耳を傾けておかないと、いずれ「引き際を誤る」ことにつながっていくのでしょう。

もっとも私自身、なまじっか「先生」なんて、呼ばれることになっちゃったものだから、より一層気を付けなければならないですけどね。

いや、学生から「先生」と呼ばれるのは、「先輩」程度の感覚で受け止めることができます。
この辺の感覚は、間違えることはありません。
学生に、「先生なんて呼ばなくていいよ」といって、じゃあ彼らが、40歳のオジサンを、「さん付け」で呼べるかといったら、かえってややこしいことになるでしょうしね。

ただ、同僚の講師陣や、事務の人、はては学長サマからも、「先生」なんて言われると、ちょっと尻が、むずがゆくなってきますね。
「何か下心でもあるんじゃないの~」なんて、心のどこかで穿って見てしまったり。
まあたしかに「先生」ではあるんですけどね。

でも、私はこれまで、「先生と呼ばれるヤツに、世の中ロクなヤツはいない」と思ってきましたから。
政治家、医者、弁護士、そして学校の先生…。
たいした、社会人経験もないまま、アタマのいいヤツ、小賢しいヤツほど、早くその地位を駆け上がっていくという社会。
それが「先生社会」でしょ。

先生と呼ばれて、尻のあたりがむずがゆくなる気持ちが、いつの間にか心地よくなるようになってしまったら、私のマーケティング生命も終わりということを、改めて自戒しておきます。



2.あなたは流れに抗うことができるか


三菱自動車が、ついに幹部陣が逮捕されるという事態に。
ダイムラーからきた社長が、株主総会前にトンズラするという、トンデモな事態になっただけでなく、上場企業、それも日本を支えてきたスリーダイヤの一企業が、今崩壊しようとしています。

元々、三菱自動車の事件は、私にとって身近なものです。
まず、うちの近所に、三菱自動車の工場、それもトラックの工場があります。
「三菱自動車川崎」というノンプロチーム名を、お聞きになったことがあるでしょうか。
あの会社は、うちから1キロちょっとのところにあります。

そして、あの事件の被害者は、私の実家のある市に住んでいた方です。
事件現場も、何度も通ったことがある道です。
幼い子供たちの命が助かったことは、わずかな希望ですけど、「絶対に許さない」と語る被害者の母親の記事を読むにつけ、とても遠い存在とは思えず、何だか悲しくなってきます。

カネボウのことは、言ってみれば経営に失敗しただけ。
ダイエーだって、そうです。
どちらも同じ、「幹部陣の暴走」ではありますが、それは「経営」という範囲内での暴走にすぎなかった。

三菱自動車の場合、「殺人」という行為を、結果的に容認してきたわけですから、当事者責任は、格段に重い。
業務上過失致死なんてものではなくて、これぞ「未必の故意」による殺人でしょう。
「おそらくそうなりうるだろうことを知りながら、事態を放置してきた責任」、殺人罪が適用されてもしかるべきだと思います。

三菱の場合、カネボウ、ダイエー的な問題にプラス、雪印食品的問題が、乗っかってきたということでしょう。
元々危うい経営状態に、人の命を奪う可能性があることを放置してきた。
放置してきたどころか、それがバレそうになると、今度は隠蔽しようとした。
本当に悪質です。

三菱自動車という会社は、もう社会的に存在する必要はないでしょう。
殺人を容認する企業は、社会にあってはならないです。
事実上、不作為のテロリストみたいなものなのですから。

今回の事件は、これからさまざまなことが明るみに出るのでしょう。
ですからこれは、今の時点での、私の勝手な想像にすぎないのですが、彼ら経営陣は、おそらく「何も判断していなかった」と思います。
そして、その「無判断」という行為に慣れ切っていた周囲も、今さらその「流れに抗う」ことをしなかった。

「まあ、ぼちぼちやっておきましょうよ」という程度の雰囲気が、彼らの間にあったのではないでしょうか。
事態の大きさは飲み込めていても、心のどこかに、会社の「通常の流れ」を乱すことを良しとしない雰囲気があった。
違いますかね。

だから、経営陣をはじめ、彼らをいくら事情聴取しても、何も出てこないような気がしています。
だってそれが「未必の故意」というものですから。

これ、米軍によるイラクでの、「捕虜虐待問題」と同じことではないでしょうか。

あれだけ、「フセインの横暴を止めさせる」といっていたアメリカが、自分達の天下になると、横暴どころか、虐待を始める。
では、あの米軍兵士の中に、誰か首謀者がいたかというと、そうではないと思います。
「その場のムード」が、ああいうことをさせたのでしょう。
最初は、ほんのささいなことから始まって、段々エスカレートしていく。
誰も、その流れに抗うことはできない。

早稲田のスーフリの事件も似たような感じだったのでしょうか。
「やめようよ」なんて言おうものなら、「勇気がない」などと言われそうな雰囲気。
スーフリのイラク版、それが虐待問題の本質だと思います。

問題は、「なあなあ」で流れてしまいそうな雰囲気に抵抗して、自分の本質を曲げずにいられるかということ。
イラクの米軍兵士と、早稲田のスーフリと、三菱自動車経営陣。
まあ、これ以上縁遠い人達もいないだろうなという感じにも見えますが、事件の根っこは同じです。
「流れに抗うことができなった人達」という意味では。

マーケティングの理論なんかを勉強する前に、こういう人間として大切なことを、忘れてはいけません。
人の命を軽んじようとしている時に、その場の流れに抗って、自らを処することは、どんなマーケティングの理論よりも、大切なはずです。

かなり手前味噌な話で恐縮ですが、私の祖父は、戦争に行かなかったんですね。
背が低くて、しかも病弱だったので、徴兵されなかった。
それで、学校の教頭あたりをやっていた戦争末期、自宅に妻(私の祖母)を迎えに来た「女子挺身隊」みたいな人に、「あんたたちそんなことやっていても無駄だ」と言ったらしいんです。
敗色濃厚なムードがあるにも関わらず、最後の抵抗を試みて、婦女子まで駆り出されるような事態になって、つい私のジイサンも言ってしまったらしい。

そうしたら、翌日、学校に憲兵がきて、「教頭を出せ」となったらしい。
当たり前ですね。
軍事政権下の日本ですよ。
中国や朝鮮半島で、今の米軍と何ら変わらないことをしていた国ですから。

しかも、明治憲法下の日本で、国家の意に背くことは、すなわち天皇陛下に背くこと。
その場で切腹させられても、何も文句は言えなかったでしょう。
とはいえ、校長先生の取りなしもあって、何とか収まったらしいです。
ジイサンが生きていた頃、この話は、何十回となく聞かされました。

そしてまあ今になって、こういう三菱やら、スーフリやら、米軍やらの話を見聞きするにつけ、自分のジイサンが、ちょっぴり誇らしくも思ったりするわけです。
「ジイサン、あんた結構カッチョよかったね」って。



3.吉野家の新メニュースクープ


とまあ、こんなマイナー系の話ばかりしていても、ユーウツになるので、私が探した吉野家の新メニュースクープと、試食結果をご報告しましょう。

ある日、近所の吉野家の前を通ったら、こんなポスターがありました。

「牛鉄なべ定食」ですよ。
牛鍋と玉子、それにご飯がついて、お値段380円。
値段からして、吉野家の本気度が伺えます。
おそらく、テスト販売中で、吉野家のサイトには、どこにもこのメニューのことは書かれていません。

これはもう試食するしかないなと思って、食べましたよ~。(^▽^

ポスターでは気付きませんでしたが、「うどん」も入っているんですね。
折しも、私が追いかけている「はなまるうどん」との提携が発表されました。
まさか、「はなまる」のうどん玉を使っているとも思えませんが、もしやこれって「サブリミナル効果?」なんて思ったりもしました。

注文して、いよいよ来たところで、隣のカップルの女性が、「あ、おいしそー」と言っていました。
うん、シズル感はたっぷりです。
わくわくして、いざ食べてみると…。

これが、かな~り辛いんですな、割り下が。(--;)
私は、すき焼きっぽく、玉子をといて、玉子の器に肉を取って食べましたが、それでも辛い。
いくら、肉体労働者でも、これは辛すぎるんじゃないのと思うくらいの辛さでした。

肉もちょっとイマイチでしたかなぁ…。
三つ葉がのっていて、ちょっとイイ感じは出ているんですけどね。
でも、肉より何より、「これは問題では…」と思ったものがありました。
それは「シイタケ」です。

まあ、私がかつて唯一食べられなかった食品は、「シイタケ」なのでありますが、酒やたばこで、見事に味覚がバカになったおかげか、いつの間にか、さほど苦にならなくなりました。
とはいえ、「シイタケ」は、「ピーマン」「にんじん」などと並ぶ、「嫌いな野菜」の代表格の一つのはずです。

調べてみたら、こんなランキングがありました。

「シイタケ」は、「20年前の子供の嫌いな野菜ワースト3」だったと。
でも、20年前の子供とは、つまり今の30代ということ。
要するに、吉野家の最大コア層ではないですか。
やっぱり、「シイタケ嫌い」は多いと思います。

何しろ、このシイタケ、有名な話では、アサヒ飲料の「十六茶」には、かつて入っていたんですけど、売れ行きが鈍った時に、「シイタケ」にその要因を求め、原料からハズしたというほど。
もっとも、それでも売れ行きは回復しなかったのですが。
ちなみに、今も十六茶には、シイタケは入っておりません

分かる人には、あの独特のニオイが、たまらんのですな。
私も、お煮染めに入っているのは、未だにダメな時もあるんですが。(--;)

で、この「牛鉄なべ定食」には、思いっきり「シイタケ」が入っております。
しかも、しっかりとシイタケの香りもついてます。
「吉野家のメニュー開発陣には、シイタケ嫌いが偶然一人もいなかったんだろうな」
そんなことを考えながら、食べ終えました。

とはいえ、この程度の好き嫌いは、まだいいのかも知れません。
苦にならない人に、多く食べてもらえばいいんですから。
もっと重要なのは、「提供時間」です。

私が、「牛鉄なべ定食」を食べたのは、休日の昼間。
午前11時頃のアイドルタイムでした。
それでも、注文から、提供まで、1分27秒かかりました。

ちなみに、後日「豚丼」を注文した時、試しに計ったら何と44秒。
しかも、この時は、深夜、終電に近い、吉野家の繁盛タイムです。
(まあ、酔っぱらったかえりに食べたと…)

牛丼の原価率は5割だそうですから(図解儲けのカラクリ、インタービジョン21編、三笠書房より)、280円のうち140円くらいが儲け。
仮に、牛鉄なべ定食も、同じ5割に原価率を設定しているとすると、380円のうち190円が儲け。
でも、提供時間は、倍かかる。

ここが問題です。
吉野家としては、本当ならば、牛丼の儲けの倍280円の、さらに倍、560円で本当は売りたいのでは…。
それとも、こんな「なべ」が、本当に190円でできるのでしょうか。
それはそれで凄いと思いますが…。

もう一つ付け加えるなら、提供時間も遅ければ、当然こんなメニューだと、食べるのも遅くなりますね。
牛丼みたいに、ガーッとかき込んで、3分以内に店から出ていくなんて離れ業は不可能です。

提供時間も遅くなって、回転率も悪くなって、さらに儲けも少なくなっているのなら…。
こりゃ、吉野家の苦難は、まだまだ続くなと感じた次第です。
皆さんも、チャンスがあれば、是非食べてみてください、「牛鉄なべ定食」。

ところで、来週は、楽しい話題にしたいですねぇ…。


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